異説 醤油の「むらさき」 


「天台宗と野田の醤油」 


天台宗と野田の醤油の関りは、
野田の醤油を、幕府御用達に推薦したのが天台宗


野田の醤油醸造家の高梨家が
1805年、野田に在った聖徳太子の
太子堂を再建させたので、
それを知った
天台宗東叡山寛永寺
良い心がけですと、幕府御用達に推薦。

そのかいあって、高梨家の醤油、「上十印(ジョウジュウイン)」は
1829年(文政12年)に晴れて「幕府御両丸御用」という、幕府御用達になる。
めでたし。

茂木家の醤油「亀甲萬」も
1838年(天保9年)に幕府御用達に。

この時点では、茂木家と高梨家はまだ醤油業界で競争相手だったが
1917年に、茂木・高梨家と他の野田の醤油醸造家も合併して
野田醤油株式会社が成立
後に、キッコーマン株式会社になる。

商売繁昌、何よりです。


と資料を読み進めると、疑問が生じる。
「何故、
天台宗寛永寺が誉めるのだ?野田の太子堂のきっかけは、
違う宗派、浄土真宗の親鸞
聖徳太子の像を置いていった事というルーツだが」

それは、調べると簡単に片付いた。
聖徳太子(574〜622)は中国から、仏教を輸入した
日本における第一人者。

仏教の中では、宗派を超えて拝まれている。


天台宗は805年に中国から
最澄
(767〜822)が日本に輸入した。

最澄が開基となった比叡山延暦寺(788)は、
後に日本仏教界の母山のような役割となり
親鸞
(1173〜1262)も、20年ほど比叡山延暦寺で修行していた。
(その後、親鸞は山を降りて浄土真宗を始める。)

宗派を超えて太子堂再建を誉めた理由は
一応分かった。


そして次に気にするのは、
東叡山寛永寺
野田の醤油を、幕府に推薦して通せるほどの影響力を持つのだから
タダの寺ではない。

(1)江戸時代の徳川幕府がスポンサー直の寺
(2)江戸城の鬼門除けの寺

(1)江戸幕府を開いた徳川家康・秀忠・家光の三代に仕えた
  「天海
(1536?〜1634)という天台宗の僧
  造営を企画・進行させた、東叡山寛永寺

  1625年創建。

野田の醤油が幕府御用達に推薦されるのは
十一代将軍徳川家斉の時代
徳川幕府の菩提寺でもある。間違えても粗末には出来ない

その先祖三代に仕えた天海、という坊さんは
徳川家康に天台系神道説の山王一実神道の奥義を伝えたり
日光に、怪しい仕掛け満載の東照宮を設立したり、と
呪術経歴ネタには事かかない坊さんである。

そんな坊さんが江戸城から鬼門に寛永寺を建てた。
 「鬼門」は方位で、北東の事。
  鬼が来る怖い方角とされた。(諸説あるが、ここではこの程度で)
  鬼に来られては困るので、防御モノを置きましょうと。

手本は、京都の鬼門鎮護、比叡山延暦寺
それにならって、関東版の鬼門鎮護で「東叡山」という山号を被せた寛永寺。

京都のマネをして、東京の上野に置いたのは、これだけではない。
・琵琶湖 → 不忍池
・清水寺 → 清水観音堂
・吉野の桜 → 上野の桜並木

奈良ネタが混ざっているのは天海の趣味か?

と、本題からズレたところで
野田に戻る。

野田市下町付近には、天台宗絡みの社寺が幾つか存在する。
上記に説明が及んだ、太子堂の他、天台宗東正寺、厳島神社、須賀神社。

大雑把すぎる地図   

そこに、気になる物がある。
野田町駅跡




野田線と醤油と北」へ続く。

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