三輪茂侶神社
御祭神 大物主命
流山市 三輪野山619
毎年1月8日に近い日曜日に、奇祭、ヂンガラ餅神事(神賀良)が行われる。
流山市の中では大きめの社。
千葉県北西部で数少ない式内社。
式内社とは「延喜式神名帳」に載っている神社のことを指す。
三輪野山という小山の上に陣取っている。昔は木が茂って、山の中のような印象だったが
最近はばっさり周囲の森が切り開かれている。
奈良の三輪山と縁があるそうだ。
西暦一世紀ごろ、東国に派遣された (何しに)
御諸別王の子孫の上毛野君や下毛野君の一族が、この地に来て、
丘陵の景色が大和の三輪山に似ているから
「三輪の山」と名づけて住み、故郷の三輪神社の分霊として茂侶神社を作ったという。
もう一つは奈良とはつながりが無いような説。
三、四世紀くらいには
既に米作りがその辺で始まっていて、湿地の低地に突き出た台地があった。
そこの端っこに祠を建てて「御端(みはし)の山」から「ミワノヤマ」
。
地形は確かにこの通りではある。
境内の、待道大権現・未確認像・不動明王・妙見大菩薩
周辺の遺跡で、糸魚川の翡翠発掘有り。(博物館展示)
☆追記
茂呂神社がある、三輪野山での遺跡・出土品
2001年 7月 発表 「大石」
三輪野山、三輪野山貝塚で縄時代の後期〜(約4000年〜2500年前)の
環状集落の中央の窪みの中に、
祭祀のシンボルと見られる角柱状の大石、土器片、祭祀具が発掘されたと
報道される。
2002年、発表 「六道銭(ろくどうせん)」
三途の川を渡るときに必要な銭、
「六道銭」という副葬品専用の金。
それに「南無阿弥陀仏」と刻むと、「念仏銭」になる。
六道銭自体は今まで各地で出てきた事のあるものだが
三輪野山道六神(どうろくじん)遺跡(室町時代〜江戸時代にかけての墓所跡)
(から出土した「六道銭」は
銀銭 が一枚、混ざっていたという。
今まで他でも出土していたのは、銅銭。
銀銭として、全国で初めて確認された出土品である。
↓2014年1月撮影。
最近気が付いた草鞋。
下には馬頭観音石仏。
2018年3月撮影。
草鞋を下げていた棒が鳥居になっていた。